宇品港では何があったのか・・・
広島市の宇品港(うじなこう)です
実は、私は宇品の話をしっかり聞いたのは今回が初めて
今日の講師は高橋信雄さん
戦時中「軍都廣島」が果たしてきた役割り、なぜ原爆が広島に投下されたのか・・・
分りやすく話をして下さいました
広島市の宇品港は陸軍が海外へ出兵する時の唯一の港だった
一日に100万人の兵隊を送ったそうです
(当時:日本一長いプラットホームの残骸)
なぜ、宇品港になったかというと、山陽鉄道が広島まで開通し
戦場に一番近い場所から出兵する事は経費が安くなる、だから
全国からの海外出兵のために、兵士が宇品港に集められ戦争にでかけ
戦争で亡くなって骨の状態・手足がなく負傷の状態・傷なく帰還した場合も
すべての兵隊が、この宇品港に帰ってきたそうです
(いろんなモノが納品・備蓄してあった倉庫)
戦争というのは、現地でドンパチをするのは、戦争全体のほんの一部
実は戦争をするには、食糧・水・燃料・武器・大砲などなどが必要
その必要物資を届ける事も、戦争では大切な任務になっている
アメリカが沖縄で陸上戦をした時、物資を運ぶタンカーがいっぱい沖縄の海上にいて、海がタンカーで真っ黒に見えた
戦争する相手国の水や物資を盗る事は、国際法違反になるそうです
だから、「後方支援」と言って、実際に戦わなくても
物資を運ぶ事は立派な戦争行為、と国際的には認識されいてる
日本政府が「後方支援」は戦争行為にならないからいいのだ、という発言をするが、それはまったく違うのです
(倉庫の壁の一部が保存されていました)
日本は中国に侵略に行った時、米と飯盒を持たされました
そして、「あとは現地調達せよ」と指令が下りるのです
日本の兵士が中国に行き、まず行うことは食糧の確保でした
部落を囲み、豚や鳥を強奪します
飯盒をするためには、薪が必要なので、民家で薪に代わるものを盗る
雨戸がよく燃えたそうで、まずは雨戸
次は、天井・床板・柱など、切り倒し燃やせる材料を確保する
中国の人が「やめて」と抵抗をしたら、撃ち殺してでも・・・・
(海辺まで伸びている石の桟橋の一部⇒海と陸の間のフェンスの間に見えるオレンジ色の石だたみ)
自分たちが食べていくには、中国の一般の人を殺さなければ、自分がやっていけない
だから、上官命令で「人を突く練習」をさせられるのです
現地の人を棒で結びつける
兵士の頭の中は真っ白になり、手足が震えるが、上官から
「つまらん!大和魂はないのか!」と檄が飛びます
5~6人の集団で一気に突く・・・・
このような練習を繰り返すうちに、人間はだんだん慣れて、ほとんど平気になったそうです
人間が鬼になる瞬間です・・・
(分りにくいかもれしれませんが、先ほどの桟橋のイラストと写真です)
そして、証拠隠滅、また現地の人が生活を再開できないように
燃えるものすべての物に火をつけていくのです(火付け部隊)
中国の人からすれば、日本兵は
・奪い尽くす ・殺しつくす ・焼き尽くす
「トンヤンキー(東洋の鬼)」と呼ばれていたそうです
日本兵の約3割は、直接の闘いで死に
残りは飢え死にか、病死だったそうです
「日本の軍は立派だった」など美化する話もあるが
戦争の実際、実態はこうだったのだ
中国の人への強奪と虐殺
そして、日本の兵隊自身も、生きていくための手段も、ほとんど持たされず戦場に連れて行かれたのです
戦争というのは、そうなんだ
正義の戦争とか、国のためなど、戦争必要論もあるけど
人を殺し、殺される
その事に、正義も国のためも通用しないのではないでしょうか?
日本軍が行った侵略戦争、現地で何をしたのか、その事実を私たちは知らなくては
そして、むごい戦争を引き起こした、日本政府の責任と反省が必要
原爆投下する街を広島に選んだ大きな理由は
海外派兵をしている「軍都廣島」であったから・・・・
今日の宇品港は、とても穏やかでした
続きはまた次で・・・